2011年10月27日 (木)

Arigato Ohioで The Columbus Japanese Women's Chorusがアメリカ国歌を斉唱

10月26日 PM6:00-7:00に Ohio州 Dublin市内のOCLC Online Computer Library Centerにて
開催された 東日本大震災の津波被害において オハイオ州の支援に対する
日本領事館からのArigato Ohio(謝恩レセプション)が開催されました。

その席に The Columbus Japanese Women’s Chorus が呼ばれ、
レセプション前のセレモニー開始時に 感謝の意を込めた
アメリカ国歌(英語)と日本国歌を斉唱しました。

The Columbus Japanese Women’s Chorus の唱う写真が
Ohioの地元紙である Columbus Dispatchの1面で
カラー写真入りで紹介されました。

詳細はこちらのColumbus Dispatch HPをご覧下さい。


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The Columbus Japanese Women's Chorus sings the U.S. national anthem at the beginning of Arigato, Ohio (Thank you, Ohio).
The choir also sang the Japanese national anthem.

コロンバス 日本婦人 コーラス隊は Arigato Ohio (オハイオ感謝の会)の最初に
アメリカ国歌を斉唱しました。
コーラス隊は 日本国歌も斉唱しました。


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2007年9月26日 (水)

HONDA Bikesに

HONDAの久々にやる気を感じさせる 参考出品 CB1100RとCB1100Fの詳細情報が載っていました。
思わず、レジに直行し、買ってしまいました。

見開きの大判写真や細部の写真もあって、情報量が多いです。
どちらも型物で作ったような 綺麗な造形なので、市販の可能性が高いと思います。
きっと両方共に市販されるのでしょう。

益々期待が高まりました。

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他にCB223Sや 08 CBR600RRも写真入りで載っていましたよ。

また、発表はされていないのですが、モータ−ショー当日にサプライズとして2台のバイクがデビューするとの噂もあります。
1台は 2年前に 参考出品されたまま、音沙汰の無かった DN-01の市販バージョンが展示されるとのこと。

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もう1台は 「Raptors & Rockets」に出ていた 08モデル CBR1000RRが出展されるとのこと。

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各社、隠し球を用意しているようですね。

HONDA Bikesは人気が出るだろうから、早く本屋に直行しないと売り切れちゃいますよ。

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2007年8月 4日 (土)

がばいばあちゃんシリーズ

島田洋七のがばいばあちゃんシリーズは 凄く面白くて、共感して、感動した。
4冊も一気に読めてしまい、続きが読みたくなり、あらたに”がばいばあちゃん佐賀から広島へ 目指せ甲子園”を買ったのだが、
話がダブり、表現も少しいじっていて、ちょっと違和感がある内容だった。
最初の4冊は おばあさんの生き方と自分の自叙伝、さらに書き足りなかったところの捕捉、奥さんとの出会いから漫才師の下積み生活とそしての成功まで、最後が母さんとの半生を描いていて、新たな展開が多くて、楽しめました。
しかし、今回の本は タイトルを変えて、前の内容の使い回しとちょっとだけ捕捉を入れただけなので、ネタ切れなんだろうなあと感じました。
前は 実存の学校名、店の名前だったのに 今回から架空の学校名に変わったりして、小説的観点を増やした感じです。
もとからノンフィクションとして扱っていないので、誇張や創作は入っていると思いましたが、今回はそれが更に強くなったと感じます。

もう、本を出さずに 前の本を大切にした方が良いと思います。
だんだんとメッキが剥がれたような印象を受けます。
最初の4冊で打ち止めにするのが 正しい読み方だと感じました。

今、我が家でみんなで回し読みしていますが、貧乏を経験したことのない、外で自然相手に遊んだことのない子供達は 古い生活様式に違和感があるようです。 読んでいてものめり込む事は無いように思います。

やっぱり時代背景を実感して理解出来る人と出来ない人では読んだ後の感想も違うのだろうなあ。。。。

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2007年7月29日 (日)

気になる四冊。。。

最近、気になる本を買い込み、明日から移動時間に読んでみます。
がばいばあちゃんの生き方と哲学に前向きに生きるために伝えた言葉に生きる心の強さを感じました。

自分にも少しだけおっそ分けして貰いたくて 一気に四冊買い込んでしまいました。
後で感想を載せますね。 いつになるか分からないけどね。。。

佐賀のがばいばあちゃん
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笑顔で生きんしゃい!
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幸せのトランク
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かあちゃんに会いたい
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2007年2月18日 (日)

贈り物

息子と娘に 本のプレゼント
親からの 戻ってこない時間を大切にして欲しいと思う気持ちと
何時からだって やり直せると思う 諦めない気持ちを 感じて欲しいと思って。。。。

息子に
泣ける2ちゃんねる

オール1の落ちこぼれ、教師になる


娘に
泣ける2ちゃんねる(2)

未来のきみが待つ場所へ 先生はいじめられっ子だった

でも、4冊とも テレビの前に置きっぱなし。。。。
やはり まだ、彼らには まだ分からないようだ。
いつか読んでくれるだろう。

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2007年2月13日 (火)

オール1の落ちこぼれ、教師になる

この人の人生に 人間の可能性の高さを垣間みました。
奥さんである 純子さんも素晴らしい人だと思います。
宮本さんの人生を変えたのは 純子さんの思いなんでしょうねえ。

自分も もっと頑張れる気がします。

引用です。。。。。
中学1年の通知表が「オール1」、「九九」も言えなかったが、猛勉強の末に名古屋大学理学部に合格した宮本延春(まさはる)さん(37)(愛知県豊川市)が、数学教師として、母校の私立豊川高校の教壇に立っている。中学卒業後は大工をしていたが、ビデオで見たアインシュタインの理論に衝撃を受け、小学生の勉強からやり直した。宮本さんは、落ちこぼれだった自分を振り返りつつ、「目標を見つける手助けをしてやりたい」と、生徒たちに熱い眼差しを注いでいる。
 1年生を前にした2005年4月の最初の高校の授業で、宮本さんは、黒板に教科名を書き並べた。国、社、数、理、英……。そして各教科の下に「1」という数字を書き足した。
 「これが何のことか分かるか」。生徒たちに問いかけるが、反応はない。「おれが中1だった時の通知表。オール1だったんだよ」
 「うっそー」「なんで先生になれたの?」。静まり返っていた教室が、にわかに活気づいた。

 小学生時代。気が弱く、体も小さかった宮本さんは、格好のいじめの標的だった。筆箱や上履きが隠されるのは日常茶飯事。休み時間に後ろからけられることや、足に画びょうを刺されることも少なくなかった。
 中学に進み、最初にもらったオール1の通知表に、「やっぱり、おれはバカなんだ」と自分を見放した。義務教育を終えた時の通知表も、「2」が二つで、残りはすべて「1」だった。九九を全部言うことができなかった。
 中学卒業後は大工の道に進んだが、親方の指導は厳しく、すぐに手が飛んできた。理解者だった母親を16歳の時に病気で亡くし、17歳で大工をやめた。その翌年には父親も病死した。
 だが、20歳を迎えたころから人生の風向きが変わり始める。地元の建設会社に就職。後に結婚することになる純子さんと出会ったのも、このころだ。純子さんから、一本のビデオを手渡されたのは23歳の時。家に帰って再生すると、「光は波か、粒か」をテーマに、アインシュタインの理論を解説したテレビ番組が録画されていた。画面に吸い込まれ、我に返った時には90分の番組が終わっていた。
 「もっと知りたい」。味わったことのない気持ちでいっぱいになった。「物理学を勉強するには、大学に入らなくては」。直感的にこう思い、その一歩として定時制高校を受けようと決意した。
 夢への道は、九九のマスターから始まった。小学3年用のドリルを購入。中学3年までの数学と英語を独りで学んだ。「難しい知恵の輪を簡単に解くのを見て、やればできる人なのではと思ったんです」と、純子さんは振り返る。
 自宅に近い豊川高校の定時制に入学したのは24歳の春。物理学科のある名古屋大に志望を定めた。

 毎朝5時に起床し、出勤時間まで勉強。帰宅後も午前0時まで机に向かった。高校3年の3学期。大学入試センター試験で8割近い点を取り、名古屋大の理学部を受験した。
 合格を知った時のことは忘れられない。自宅の郵便受けに入っていたレタックスを恐る恐る開き、その中に自分の受験番号を見つけた。「不合格者の番号が掲載されてるのでは」と何度も確認した。
 1996年4月、27歳で名古屋大に入学した。
 学部と大学院で過ごした9年間。宇宙物理学を専攻し、素粒子などの研究に没頭した。在学中に結婚、長男も生まれた。初めは研究者になるつもりだったが、満ち足りた日々の中で別の思いが芽生えた。
 「自分の経験が一番役立つ仕事は教師ではないか。落ちこぼれだったから、生徒がどこでつまずくかがわかるし、いじめられた時の悔しさもよくわかる」
 母校に電話をかけ、教壇に立ちたいと願い出た。

 理科と数学の教員免許を持つ宮本さんは、週14時間の授業を担当している。
 「三角形の内角の和は何度だい」。授業はしばしば、中学の内容に戻る。「先生の話は分かりやすい」と生徒たちは口をそろえる。
 つまずく生徒もいないわけではない。しかし、九九もできなかった自分に比べれば、間違いなく、全員がより大きな可能性を持っている。
 本格的に教壇に立つようになって1年。宮本さんは「毎時間、全力投球してきたけれど、生徒一人ひとりの個性に応じた指導をするのは、予想以上に難しい。まだまだ勉強は続きます」と話す。
 「子どもたちが目標を見つける手助けをしてやりたい」。23歳で初めて人生の目標をつかんだ新米教師の、それが新たな目標だ。

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2007年1月20日 (土)

泣ける話

先ほどの 泣ける2チャンネル からのコピペです。
実話なのかフィクションなのか?
実話だと思って、感動する方が幸せな気がするから 実話だと思ってます。


俺の家は小さなパン屋をしていた。親父がパンを焼いて、お袋が店で売るという店員2人の小さな店だった。
俺は幼稚園のころから店を手伝っていた。 
すぐ横にはおじさんがやっている豆腐屋もあったので、かけもち で手伝っていた。 
友達と遊ぶのも良かったが、店でお客さんと話す方が好きだった。

俺が中学生のころ、うちの店によく来る親子連れがいた。
決まって食パンとラスクとパンの耳を買っていった。
お袋はいつも一緒に来る女の子にアンパンをあげていた。
お袋は「あの人は可哀想な人なのよ」と言っていたが俺にはよく分からなかった。
しかし、アンパンをあげた時の嬉しそうな顔は本当に絵に描いたような笑顔だった。

それからしばらくして、お店に来たお客さんの話でお袋の言葉の意味が分かった。
その家庭は母子家庭で子供が4人もいた。
早くに親父さんをなくして母親1人で育てていた。
しかも、その兄弟の1人が中学生で俺と同じ部活の後輩だということも分かった。
その後輩は女の子で普通の子だった。
ただ、思い出して見ると、お弁当を忘れて来る日が結構あった。
俺はそのことと、聞いた話とが一気に合わさった。
俺はショックだった、どうして今まで気付かなかったのかと悔やんだ。
別に何をしてあげるというわけでもないのに、とにかく自分の無神経さに腹が立った。

俺は次の日から、その後輩に話しかけるようにした。
できるだけ近くにいようとした。そうしないと気がすまなかった。
俺はお弁当を2人前持って登校するようにしていた。
うちの中学は弁当は部室で食べることが基本になっていたので、
後輩がお弁当を持っていないと分かったときには「俺もう食えないから1つ食ってくんない?」
とあげることにした。
遠慮しながらも「ありがとうございます」と嬉しそうな顔をしてくれるのが俺の何よりの楽しみだった。

ある日、うちの店に後輩といつもの女の子が買い物に来た。
俺の知っている限り、後輩がうちの店に来たのははじめてだった。
後輩は恥ずかしそうにいつもの買い物をした。
そのときにボソッと「いつも気を使っていただいてすみません。
私のうちは貧乏なもので…」と後輩が言ったとき、俺は涙が出てきた。
お袋も泣いていた。後輩も泣いていた。
俺は手当たり次第、店のパンを袋に詰め、隣のおじさんの店の豆腐もふんだくってきて後輩に渡した。
しかし、後輩は受け取らなかった。
「生活はできているんです。贅沢はできないけど大丈夫です!」と明るく笑顔を見せて言った。
俺は恥ずかしくなった。自分が情けなく感じていた。
すると親父が出てきて「1度袋に入れたパンなんか売り物になるか、
その子によくお願いして持って帰ってもらえ!」と一言言ってまた引っ込んでいった。
頑固親父らしい言葉だった。
お袋は「重くて大変だから持って行ってあげなさい」と俺に気を使ってくれたようだった。

家まで送って行く途中、色々な話をした。
今までの生い立ち、今の生活のこと、なくなった親父さんのこと、将来のこと、
できるだけゆっくり歩いて話した。
俺の知らない苦労をしてきているんだと思った。
俺がお弁当をわざと2つ持っていっていることは気付かれていた。

家に送っていった直後、後輩のお袋さんが謝りに来た。
「余計なことを言って乞食のようなまねをしてすみません」と土下座をして謝っていた。
俺は、俺が余計なことをしてしまった今までのいきさつをお袋さんに話すと、
お金だけは支払うとお金を払うといって聞かない。俺とお袋は困ってしまっていた。
すると親父が出てきて「うちのパンの値段を決めるのは俺だ、お客さんが決めるんじゃない。
俺が金はいらないといったらいらないんだ。それが俺の決めた値段だ。」
そう言うと親父はまた引っ込んでいった。後輩のお袋さんもやっと納得してくれた。

次の日、後輩が俺の弁当を作ってきてくれた。
これが飛び上がるくらい嬉しいってことかって思うくらい嬉しかった。
そしてそのとき「何かお礼がしたいんですが…」といっていた。
家に帰って親父達に相談した結果、うちの店を手伝ってもらうことにした。
給料はないけどその日に残ったパンは全部持って帰っていいという条件だった。後輩は大喜びだった。
次の日から後輩が店に来るようになった。とっても明るくなった気がした。
親父も昼からはほとんど焼かなかったのに、夕方になって残りが少なくなりそうになったら、
あわてて焼くようになった。結構気を使っているようだった。
風邪をひいても毎日うちに手伝いに来た。
店が休みの時にはうちの掃除なんかを手伝ってくれていた。
いてあたりまえの存在になっていた。

俺はうちから1番近い公立高校に入ることになった。
後輩は高校には行かずに働くつもりでいた。
後輩がうちで今まで通り雇ってくれないかと言ってきたとき「うちは高卒以上じゃないと雇わない。
でも、高校に通いながら働くのだったら雇う。勤労学生の学費はうちで出す。」
と親父が俺の方を見て、ニヤつきながら後輩に言った。
お袋と後輩は「すみません。すみません」「いいのよ。いいのよ」と泣きだす。 
親父は1人うなずいている。 俺はなにが起きたのか分からなかった。
結局、後輩も俺と同じ高校に入学し、中学同様に仲良く生活していた。

俺は高校を卒業してから親父に弟子入りして必死になって仕事を覚えていた。
でも1時、魔が差した時期があった。友達の紹介で同い年の女の子と付き合っていた。
仕事には差し支えないようにしたが、朝帰りすることも少なくなかった。
その女の子に部屋に泊まることも多かった。楽しかったのだが、いつも心に後輩のことが引っかかっていた。
仕事でも、売り場にほとんど行かなくなったので後輩と話しをする機会が休憩時間位になっていた。
そのわずかな時間にも俺としては話しかけにくく、また、何を話していいのか分からなかった。
後輩の店での笑顔が少なくなったようなく気がしていた。
そして、とっても悲しい目をしていることがあった。

ある日、後輩が店で倒れた。店を閉めるちょっと前の片付けをしているときだった。
お袋が真っ青な顔をして「救急車、救急車!」と叫んでいたが、
親父は店を飛び出して近所の診療所の先生を連れてきた。
先生の話によると過労だった。
後輩は俺の部屋のベットに寝かせてその晩はうちに泊めることにした。
俺は後輩の横に座って看病していた。
後輩は点滴の薬が効いたのか、起き上がれないものの話はできるようになった。
後輩は「すみません。私はもう大丈夫ですから(彼女のところへ)行ってください」と笑顔で言ってくれた。
しかし、その日は行く気にならなかったので後輩のそばにいた。
あとでお袋に呼ばれ「○○ちゃんがこうなったのはおまえが心配をかけるからだ」とさんざん怒られた。
俺もそう思っていたのでなにも反論できなかった。
お袋は、今付き合っている彼女と別れて後輩と付き合え、それが罪滅ぼしだ。と泣きながら俺に言った。

確かに付き合っていた彼女には、後輩ほど思い入れや親近感はなかった。
信じてはもらえないかもしれないが、後輩とは偶然以外では手もつないだこともなかった。
キスはもちろん、セックスなんて考えられないようなまさに純愛だった。
中学からの付き合いで、毎日一緒にいるので何度もそういった衝動に駆られたこともあったが
理性で何とか押さえ込んでいた。
今考えてみると、エッチなことをして嫌われるのが怖かったからなのかもしれない。
しかし、女の人の手を握ったこともないまま高校を卒業した俺でも、性欲はしっかりあり、
どこかで発散したくてしょうがなかった。
そんなときに友達から紹介されて彼女と出会った。

彼女は後輩とは全くタイプが違い、非常に積極的だった。
会ったその日のうちに腕を組んできて、キスもした。
次の日には彼女の部屋に呼ばれて泊まるような関係になった。
彼女は俺の欲望の全てを知っているかの如く、全てを満たしてくれた。
彼女も好きだったのだと思う。何度でも応じてくれていた。
しかし、欲望が満たされるとすぐ、後輩の顔が思い浮かんでいた。
彼女のことが好きだったのか? と考えると、好きだったのだと思う。
しかし、後輩を思う感覚とはまるで違うものであったことは確かだ。
それが「友情」と「愛情」の違いなのか、「愛情」と「家族愛」の違いなのかは分からなかったが・・・
非常に申し訳ない言い方だが、彼女のことはセックスフレンドと思っていたのかも知れない。
とても勝手な考え方だが・・・

お袋が泣いて言葉にならなくなると親父が「どっちを選ぼうとおまえに自由だ。ただし、よく考えて選べ。中途半端なことをして『やっぱり変える』なんてことをして○○ちゃんをまた泣かせたら俺が承知しない。本当に好きな子を選べ」と俺を睨みつけながら言った。

俺はまた後輩のそばで看病していた。後輩は眠っていた。
不思議とこんな恵まれた環境にありながらスケベな感情は一切、湧き上がってこなかった。
そばにいて顔を見ているだけでとても幸せだった。
俺はそのまま床に転がって眠ってしまった。気付くと後輩はベットにはいなかった。
店にいって見ると後輩とお袋が口論をしていた。「もう1日休め」「もう大丈夫」の言い合いだった。
結局、親父の一言でもう1日、俺の部屋で休むことになった。俺は看病を命令された。
その日、1日中後輩と話していた。
中学の頃みんなに冷やかされたことや、学生時代の思い出話、遊びにいったときの話、
楽しいことも辛いことも、思い出はいつも後輩と一緒だった。

俺が中2、後輩が中1の時からずっと一緒にいたのだから当然と言えば当然だが、
俺はそのことに気がつくと心の中が決まった。
その日も後輩をうちに泊め、1晩中話をしていた。
家に帰った方が休めたかもしれないが・・・
次の日、俺は付き合っていた彼女に別れてくれるようにお願いしに行った。
ごねられたらどうしようかと内心思っていたが、あっさりとOKされた。
あとで友達に聞いた話だが、俺の他にも付き合っている人がいたらしい。
俺は急いで帰って後輩を呼び出した。
そして彼女と別れたことを言って俺と付き合って欲しいと告白した。
後輩は呆然としていたが、しばらくして泣きだした。「私なんか駄目です。私なんか駄目です」
と繰り返すばかりだった。
とにかく考えてもらうことにしてその日は送っていった。
家に帰り、親父達に彼女と別れたことと後輩に告白したことを報告すると2人とも喜んでいた。
しかし、「おまえが今までして来たことを考えると、○○ちゃんに振られてもちっともおかしくないんだから覚悟しておけ!」
と親父に言われた一言が心に深く刺さっていた。

次の日、後輩はいつもより1時間早く来た。
うちは朝4時から仕事なのだが、3時前にはもう来ていた。
昨日の返事をしたいということだった。答えはNoだった。
理由を聞くと 小さい頃からお世話になっているところの息子に、これ以上迷惑をかけられない。
お付き合いなんて厚かましくてとんでもない。 ということだった。
親父達が「今日は2人でゆっくり話し合え」と休みをもらったので俺の部屋で話をすることにした。
俺は、今まで付き合っていた彼女のことが原因だと思っていた。
だからそのことをとにかく謝った。
全てを後輩に話し、このことが原因だったらそう言ってくれと頼んだ。
彼女とのことが原因だったら「身から出たサビ」と言うことなのですんなりあきらめようと思っていた。
しかし、お世話になったとか何とかという無理やりな理由はやめて欲しかった。

後輩は、彼女が原因ではないと言った。
彼女のことはとても悔しかったらしい。
自殺しようと思ったこともあったらしい。
けれども俺に「彼女と別れてくれ」とわがままも言えないので我慢していたらしい。
後輩はかなり遠慮深いので、本当に俺と付き合うことを厚かましいことと思っていた。
俺はそういうことなら俺からお願いしているんだから、俺の願いを聞いてくれ と頼み込んだ。
するとやっとOKをもらった。
その日、うちではお祝いになった。
後輩の家族も招いて、豆腐屋のおじさん一家も招いて「交際記念パーティー」となった。
俺のお袋と後輩のお袋、後輩はずっと泣きながら話していた。
そのとき、後輩の弟がおじさんに気に入られ、豆腐屋のバイトをはじめることになった。

俺と後輩との交際は学生のころと同じで、手もつながないデートをしていた。
しかし、なぜか性欲は満たされている気がした。
もちろん、毎日オナペットにはしていたが・・・
俺もタイミングが悪く、プロポーズしようとしていながらなかなかできず10年がたってしまった。
彼女との交際は相変わらずだったが、愛情は深まって行くばかりだった。
うちの店も配達なども多くなり、店がかなり手狭になったので新築することにした。
この機会に後輩のお袋さんもうちで一緒に住んだらどうかという親父の提案に俺は大賛成をした。

このことを後輩に教えた。そして一気にプロポーズをした。
いつものように後輩は泣きだした。「私なんか駄目です」病がはじまったので、思い切って抱きしめた。
しばらくして「お願いします」と小さな声でOKをくれた。
俺は約10年間持ち続けた婚約指輪をやっと渡すことができた。
後輩は「私なんか駄目です」病だったが、後輩のお袋さんは「滅相もない」病の持ち主だった。
結婚の許可はすぐにもらえたが、同居に関しては1ヶ月以上かかった。
後輩のお袋さんもうちの住み込み従業員ということでやっと納得してもらって、
今はうちの両親、俺達夫婦、お袋さん、妹2人の7人で暮らしている。もうすぐ8人になるが。
ちなみに弟はおじさんの娘と交際中だ。婿養子になるらしい。


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泣ける!

今のマイブーム!
泣ける2チャンネル

毎晩、少しずつ読んでます。
俺より頑張っている物語がある。
俺もまだ 頑張れる!
と 自分を鼓舞しています。

頑張り過ぎまでは するつもりはないけれど、少し疲れた時の心のユンケルです。

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2006年12月23日 (土)

ガレージ欲しいよね

MOTO MAINTENANCEの NO.69も買ってしまいました。
今週は 雑誌の支出が大きいです。

特集は ”ガレージが欲しい”
私も 青空メンテナンスは 今の時期、寒さがこたえるし、北風なんか拭いたら 冷え上がってしまいます。
お日様が暮れるのも早くて、時間にも追われるので、ガレージは羨ましいですよね。
でも、場所も予算も無いので、未だに青空整備を続けないとね。

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ビューエル本

BUELL MAGAZINE Vol.8が出ていたので、早々にゲットしました。

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モタード風のシングル設定 XB12STTの試乗記が出ていました。
ヘンテコなスタイルと思うのは 自分だけでしょうか?
シート付近があっさりしたデザインが ビューエルらしさなのに
そこに でかいゼッケンプレートがあって、タンデムステップが付いていないのは、
XBの全体デザインとアンマッチに思えるのですよね。

でも、その評価は高いみたいです。 サスの変更が進んでいるようです。
それだけはチョット悔しい気持ちです。
でも、デザインで選べないよな。。。。 足の長さも問題だし。。。。。

新しいピレリのディアブロコルサは羨ましい装備ですよね。
買って付けようと思ったら 高いのなんのって。。。。
今日もタイヤ交換を 2りん館と南海部品に聞いてみたら
両方とも”外車はやりません” だって。。。。
覚悟はしていたけど、タイヤは 通販で パイロットスポーツを買い、ホイールを自分で外して、
持ち込むしか無いよね。
やっぱりちゃんとした スタンドを買おう。

参考になるのは ビューエル独特のライテク講座とアフターパーツのカタログですね。
マフラー欲しいけど 高いし 種類が少ないですね。
最近の規制は厳しいから なかなか良い音のマフラーは作り難いのでしょうねえ。

Pc230010

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